「教える側の基礎スキルとして、教える相手の知識レベルに合わせられる事が大前提」そんな事を最近思います。
こんばんは。社会学者で発達障害の父親に最近まで振り回されていた、アラフォー主婦のユイカです。
ウチの父は大学教授ではあったのですが、三流大学の教授でした。本人は専門分野において自分がトップクラスの研究者だという自負があったのでしょう。だからこそ「ウチの大学の生徒はバカばっかりで俺の授業について来られない」とよく愚痴っていました。あるいはバカにする発言でもって、自分の退屈な人生についての憂さ晴らしをしていました。
今思えば、おふざけにも程がある。酷い言い草です。「お前こそ、そのバカにもわかる様に教えてみろよ」という話しでしょう?(ちなみにわたしも父の大学の卒業生なのでバカの一員です。)
「教える側の基礎スキルとして、教える相手の知識レベルに合わせられる事が大前提」
これは、昨今のオンライン化はもとより、あるいはそれ以前から小さなコミュニティとして「習い事」「学校」「サロン」「サークル」が急増してきた事により、何らかの「先生」と呼ばれる人々が急激に増え始め、様々な「授業」に触れる機会が増えた事から、より顕著に感じる様になりました。
玉石混交、いろんな講師や先生と呼ばれる人々が溢れ返っているこの世の中で、相手に合わせて教え方や教える内容を変えられない、教えるスキルの伴わない人間は、淘汰されて然るべきです。
父の世代までは、大学教授はその椅子に胡座をかいてエラそうにしているだけで許されたのかもしれない。しかし今後は大学でさえ、教える側のスキルも問われる事になって行くでしょう。
父には残念ながらそのスキルがなかった。
学生をバカにしていた。
多くの学生に届く話し方は出来なかった。
おそらく社会学を広める事には貢献できていないし、目の前の多くの学生たちの人生に「何かしらの気づきや学びを与えたい」などとは思っていなかった。
父が話したい様に話した内容をキャッチしてくれた少数の学生だけしか、相手にしていなかった。
東大生に向けた様な講義を三流大学で行い「学生がバカだからついて来られない」と嘆くなら、バカなのは生徒ではなく父の方です。それを退官までの40年間続けて来たのなら壮大なミスコミュニケーション。娘としては悲しい話です。
そうは言っても確か父には、お弟子さんというか、教え子で社会学者になられた方が1人だけいらしたはず。その方が出てくださった事だけは、父が人様のお役に立てた事なのかもしれません。
発達障害で他人の気持ちがまるでわからない父のもとで頑張ってくださったあの方に、こちらがお礼を言いたい気分です。
あの先生が父を今でも恩師と思ってくださっているかはわからないし、そもそも父がお役に立てていたのか、本当のところはわからない。
でも、ちょっとした救いではあるのです。
わたしにとって。
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