そういえば、親と本当の意味で話しをした事など、なかったのかもしれません。
こんばんは。社会学者で発達障害の虐待毒親に最近まで振り回されていた、アラフォー主婦のユイカです。
「対話」を辞書でひくと、「向かいあって話すこと」とあります。
両親とは、物理的には向き合って話していたけれど、正確には真正面に正座させられ向き合う形を取ることを強制されていたけれど、気持ちが向き合った事なんて物心ついてから1度もなかったです。父とも母とも。
つまりは、対話をした記憶がない。
まともな会話すらないです。子どもと意思疎通を図るという意志は彼らにはありませんでしたから。
我が家にあったのは親から子への一方的な命令だけでした。
ウチは親子仲がいいもんなぁ。
なぁそうだろう?
俺の言う事を聞かないやつはこの家には置かないからなぁ。ハッハッハ。
何だその目は?何でそんなに不機嫌な顔なんだお前は?俺が気に入らないのか?養われてる分際で生意気な!笑え!
ヘラヘラ笑うな!
知的な顔が出来んのか脳ナシ!
喋るな!黙って勉強しろ!
発達障害で他人の気持ちがわからない父には、こちらから何かを伝えようと努力しても、どうにも伝わりませんでしたので、我々子どもも諦めてしまった。すると、こんな一方的な罵詈雑言千本ノックみたいな日常になってしまったのですね。
言葉のキャッチボールとか
対話とか会話とか
特に父親とは、不可能でした。
それでも喋っている側の人間は、そこに聞いてくれる人間さえいれば、聞き手に「YES」以外の答えを与えない状況、服従を強いる内容でも、話を聞かせる相手さえ目の前に座っていれば、対話や会話が成立した気になっていたのでしょう。
そんなもの、コミュニケーションじゃないのにね。
あんな関係性は、こりごりです。病みますよ。だから、対話が出来る人とだけ、今後も良い関係を築いて行けたら、わたしは幸せだ。そう思います。
対話も会話も出来ない親と35年間暮らしたからこそ、対話が出来る人の有り難みを感じます。
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