毒親育ち35年、その後の人生。

親から過剰に束縛される事により歪んでいった、過去の己の闇を見つめ直すべく綴っています。

不自由すら、自由なのよ

昨日の続きです。

こんにちは。社会学者で発達障害の父親に最近まで振り回されていた、アラフォー主婦のユイカです。

 

「自由」についてのお話し会の振り返りなのですが

 

「自由」とは、一般的には、「制約のない状態」。しかし、何の制約もなく生きるのは「自己中」ではないですか?そして、「自己中」と「ワガママ」もまた、違うものでしょう?とE女史。

 

まぁ、そうかもしれません。

修学旅行や、パッケージツアーでの旅行。ある程度行程やオプションツアーの選択肢があるから「自由時間」「フリータイム」を自由だと思えた。「選べる事」を「自由」だと思えた。

 

だから、自由とは、責任や義務、ある程度の役割を、誰に言われるでもなく果たして、その上で、やってくるものなのだと。少なくともお金や時間の問題ではなくて、心や魂が「選んでいい」と知っている事。それが自由よ、と。

 

ところで「子どもの自由」という話しになると

「自由とは何か?の認識をはき違えた自己中な大人に育たない為に、ルールを叩き込むのが親の務め」って話しになりました。

 

しかし行動を制限しすぎると、すべての意思決定を親に依存するアンポンタンに育つ。「不自由だ」と、文句ばかりを言う平和ボケな人種は今後生きて行けない。そんな人種を増やしてはならない。

子どもといえど、子どもだからこそ、「全ての責任を自分で」取らせる。

「みんなと同じ事をしていれば安心」だなんて考える家畜を増やすな。

「心配している」と言わず「信じている」と言って育てよう。

 

そんな話しになりました。

うん、これ、効果的だと思う。

わたしが受けたのと真逆の子育て。

 

子は親を選べないから

子どもの話しはこのくらいにして。

 

 

最後に「不自由すら自由」という言葉。

 

「不自由と嘆いてみても、その状況を選んでいるのは自分。自分の自由意思で、不自由でいるのでしょう?だったらその不自由ですら、自由なのよ」

 

うん。ウチの父も先祖も、不自由さを抱えていたけれど、それすらも自由だったのよ。

自由意志で不自由を選んでいたのよ。

 

なので彼らを「不幸だった」と思うのはやめよう。そして、わたし自身の事も「不幸だった」「不自由だった」と思う事を、やめようと思います。

 

 

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