毒親育ち35年、その後の人生。

親から過剰に束縛される事により歪んでいった、過去の己の闇を見つめ直すべく綴っています。

人生で初めて理不尽を知ったのも、幼稚園の頃だった

人生にはどうにもならない事があると最初に知ったのは、これもまた幼稚園の頃でした。

 

こんにちは。社会学者で発達障害の父親に最近まで振り回されていた、アラフォー主婦のユイカです。

 

ウチの妹が就職して東京に行った時、「福岡って修羅の国なんでしょ」「お前らみんなチャカ持ってんだろ?」と聞かれたそうです。まぁ、ジョークとはいえ、そういうイメージなんですかね?「福岡ってガラが悪い」

 

その答えは「エリアによってはね」という事だと思います。そうは言っても現代に於いては昔ほどではないはずですが。エリア毎のレッテルというのは、昔は大いにあった様です。江戸時代まで遡るやつですね。

 

わたしが子どもの頃もそれは何となく言われていました。そして人生初の理不尽は、家の最寄りの公園で、おそらくそのガラが悪いとされるエリア在住とおぼしきお子様方と一緒になった時です。

 

わたしは母と2人で公園を訪れていた。

お相手は幼稚園年長さんほどのお姉ちゃんと年少さんほどの弟の、2人組だった。

 

ブランコにその姉弟がいたので、わたしは砂場にいた。すると、その姉弟がわたしの母を連れて、砂場で遊ぶわたしのところに来た。

そしてお姉さんと思われる色黒でスラリとした子どもながらに華のある容姿の彼女がわたしの母に、わたしを指差しこう言いました。

 

「この子にバカって言われた」

 

 

「?????」

完全なる言いがかりです。

ブランコには確かに乗りたかったけど、先にあなた方姉弟がいたから、わたしは諦めた。

遠巻きに見ていただけ。

「バカ」などという言葉はかけていない。

声が届く距離に近寄っていない。

もちろん遠くからもバカと罵る事・呟く事はおろか、舌打ちもため息も、何のアクションも起こしていない。ガッカリはしていたかもしれないけれど。

 

わたしは「そんな事言ってない!」と反論しましたが、その子らは「確かにバカにされた」と譲りません。そして「謝れ」と。

しばらく言い合いをしましたが平行線。

 

わたしは言っていないものは言っていないので、悔し涙を堪えながら下唇をかみ、ずっと足元を睨んでいました。逃げたかったけど逃げられない。相手は蛇の様に怖かった。

彼女たちは幼子ながらに射る様な目線をわたしから逸らさず、「謝れよ」と脅し続ける。

 

そして悔しかったのは母が

「ほら、謝りなさい」と言い出した事。

 

言ってないのに!と反論しましたが

最終的には15分から20分ほど粘った後にわたしが一言ポツリと「ごめんなさい」と言い、その場が収まりました。

 

 

母はわたしを庇ってくれなかった。謝らせた。やってもいない事への謝罪を親からも強要された。そして謝った後にも「理不尽によく耐えたね」と褒められる事はもちろん「世の中、負けるが勝ちって言葉もあるからね」などというフォローもなかった。

 

悔しさが倍々増しとなった事にはさらに、わたしと母が家に帰り着くと、今度は父叔母祖父母含め、家族全員でわたしを笑い者にしました。

「ガラの悪いエリアの子どもとまともに取りあうんだもの。なかなか謝らないから疲れちゃったわ」と。「さっさと謝ればすぐ済んだのに」「ほんとにお前はガンコだ」「ボロボロ泣くくらいなら早く謝れば良いのに。ずっと黙ってて、待ちくたびれた」と。

 

大人になった今なら、「えっ!?何の事だか身に覚えがないんですが、そう見えたり聞こえたりしてたんですか?だったら誤解だけれど、ごめんなさいね!」と秒で返せます。しかし、3〜4才のわたしには情報不足で経験不足だった。「ウソをつく様な人間になるな」と両親はわたしに教えたくせに、その同じ口がウソの謝罪を促し、それが素早く出来なかった我が子を笑い者にする。因縁をつけてきた姉弟にも、帰宅後娘を笑うだけ笑っておきながら、この経験から本来学ぶべき人付き合いや常識、世渡りの方法、その本質的な問題を何一つ子どもに説かなかった両親にも、失望しました。

 

思えばあの時から自分の親がポンコツだと気づいていたはずなのに、わたしは何を期待していたのでしょうか。

 

 

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