毒親育ち35年、その後の人生。

親から過剰に束縛される事により歪んでいった、過去の己の闇を見つめ直すべく綴っています。

愛が足りない?

昨日は父の「強烈な劣等感と承認欲求」について触れました。

 

こんにちは。社会学者で発達障害の虐待毒親に最近まで振り回されていた、アラフォー主婦のユイカです。

 

自分が望む学歴を得られなかった劣等感と、祖父から認めてもらえず、満たされなかった承認欲求。それらを子どもに押しつけてきたのがわたしの父です。

 

強烈な劣等感と承認欲求。

父がなぜそこに縛られて来たかというと…

やはり行き着くところは「愛情不足」だったのではないかと思います。祖父母から愛情を受け取った実感がないのでしょう。

祖父母は祖父母なりに父を心配し、愛していたのかもしれませんが、父はどこからどう見ても発達障害。他者の気持ちがわからない人です。祖父母の愛や気持ちに気づけるはずはなかった。そして父は、欲しい物が手に入らない事が我慢ならず、わめきちらす、子どもの様な性格のまま大人になった。

「ないない。足りない。もっとよこせ!全部俺のだ!!」

全ての事象に対して、こういうスタンスの父。

そのスタートは「愛」が枯渇していたからではないかと思う様になりました。

 

わたしがそう考える様になったのは、わたしが学校や社会、家の外で出会った人々を観察して来た結果です。

家族や友人らと「愛情の交換」が上手く出来ている人々は、下手に自分を大きく見せようと嘘をつくこともないし、基本的に他者に優しいと感じます。その事に気づき、内面が満たされている人々と、そうではないわたしとの格差を感じ、愕然としたものです。我が家には無いものに驚き、妬ましく思った時期もありました。

 

さて。そんな事を考えていた折に見つけた記事を、今日も貼り付けます。

https://news.yahoo.co.jp/articles/e5efb573ac5c2d572f6b5e3222c800698957f10c?page=1

 

財産も名誉もあるのに…「親離れできない大人」が抱えたままの”人生の苦痛”

《他人のキラキラした人生に違和感を感じるが、かと言って自分の人生に自信を持てない。熱く夢を語り、自分の人生が正しいと思いつつも、依然として隣の芝が青いのは親離れに失敗したからだと、加藤諦三氏は著書『親離れできれば生きることは楽になる』で指摘している。 本稿は、刊行以来長きにわたって多くの人に読まれ、そして心の痛みを和らげてきた同書より、生きることに実感が持てない人に向けて語った一説を紹介する》 ※本稿は加藤諦三著『親離れできれば生きることは楽になる』より一部抜粋・編集したものです。
他人を信用できないのは愛されなかったから
あなたは、だまされている──と言ったら、言いすぎだろうか。なぜなら、あなたは心から他人を信用することができないから。愛された者は信ずることができるからである。 他人を信ずることのできない人間は、心の底では淋しい。そして、その心の底にへばりついている孤独感が、心のスキとなっている。その心のスキにずるい人間はつけいる。 親から愛されず、大人になってずるい人間にふり回されている人は案外多い。もし事実、親が自律性を獲得しているとすれば、あなたは心理的離乳をとげている可能性が強い。 つまり、青春時代の土台はできあがっていると考えてよいだろう。土台のできていない人は、まず土台づくりである。たとえば、親と離れて暮らす。アルバイトをして下宿するのもよい。外国留学を志すのもよい。 また、今までの自分とは違った価値観の持ち主とつきあってみることである。その人は、あなたに安らぎを与えてくれるかも知れない。
愛がないと自分を疑う
他人を受容するためには、当の本人に、生きていることに対する満足感がなければならない。われわれは、生きることに基本的に満足している者のそばにいる時、安心感を持つ。 あなたは今まで損得で行動していたから、そのような人に出会うことができなかった。損得で行動しているから、いつまでたっても強烈な自我が形成されてこなかったのである。 損得を先に考えてずるくたちまわって、いろいろのものを得たかも知れないが、心の落ち着きを失ってしまった。この世の中には、名誉や財産を得ながら、そわそわとして落ち着かない人がいる。 求めるべきものは、新しい人たちとの心のふれあいである。心のふれあいを通じて人間は成長していく。心のふれあいこそ、生きることの変わらぬ土台である。 外国留学と言ったのも、文化の違った地にあって解放され、そこで新しい心のふれあいが生まれるかも知れないからである。従って、別に外国に留学する必要もない。必要なのは、とにかく心のふれあいである。 人間はおそらく、心がふれあうことによって変化していくのであろう。小さい頃の親兄弟との心のふれあい、友達とのふれあい、成長してきて異性との心のふれあい、動物の好きな人は動物とのふれあい、さまざまな心のふれあいを通して、人間の情緒は成熟していくのではなかろうか。 10年間同じ屋根の下に住んでいても、心のふれあいを拒否した人は変わらない。親から心理的離乳をとげられていない人は、不幸にして、この心のふれあいの体験がなかった人であろう。 あるように見えながら、実際にはなかった人である。偽相互性という言葉がある。相互性があるようでない。お互いのアイデンティティーを犠牲にしたうえでなりたつ相互性である。 心がふれあうということは、あなたが自分を偽る必要がないということである。自分を偽ることなく相手と関係できる、ということである。心がふれあった人は強い。

 

心のふれあった人がいないから、他人に嫌われるのが恐いのである。他人に好かれたい、嫌われるのが恐いというのは、つきつめると孤独への恐れではなかろうか。 表面どんなに知人がいるように見えても、心の中では一人ぽっちという人が、他人に自分がどう映るかを恐れているにちがいない。他人に好印象を与えようとして自分を偽る人は、小さい頃、親に受け入れられたことがないのではなかろうか。 一方的な感情を押しつけられたとか、大きすぎる期待をかけられたとか、いずれにしろ、ありのままの自分を受け入れられなかった人であろう。他人と心のふれあいを持った人、心を開いて語りあえる人を持っている人、そんな人は、他人から悪く思われることをそれほど恐れるものではない。 自分に正直になれば、他人とふれあうことができる。そして、他人からどう思われても恐くなくなる。精神的に病んだ人なども、いろいろと確信する。 たとえば、「私の鼻の格好はおかしいでしょ」とか、「私は背が低いでしょ」とか言ってくる人がいる。どんなにそれを否定しても、こちらの言うことに納得しない。それでいながら、執拗にこちらの賛成を求めてくる。 奇妙な確信なのである。つまり、他人の賛成を必要とする確信なのである。これは、自分を偽った人間の確信である。自分に正直になった人間が確信した時は、このように他人にからんでいかない。無理に自分の確信を押しつけようとしない。 自分の確信を執拗なまでに理解してもらおうとするのは、自分を偽って生きているからである。疑似成長という言葉がある。精神的に本当は成長していないのに、成長しているかのように見えることである。 中学生の時、中学生としてやるべきことをやらずに出世しても、やがては挫折する。中学生の時に、友達とも遊ばず勉強ばかりしている。中学生らしい本も読まずに塾に行っている。大自然と接したりスポーツをしたりせず、進学のことばかり考えている。 ……そして、よい高校、よい大学に行き、やっとの思いで有名企業に入る。しかし、そこでうつ病でダウンしたのでは、何のために頑張ったのか分からないではないか。 もし、自分が疑似成長をしていると思ったら、これからは社会的成功よりも、情緒の成熟を心がけなければなるまい。親の期待をかなえるよりも、自分の心の底にある感じ方に従わなければならない。

 

出典:加藤諦三著『親離れできれば生きることは楽になる』(PHP研究所刊)

 

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