日本にいるとわからないものですが、「生き甲斐」という言葉は、日本語特有のものなんだそうです。
こんばんは。社会学者で発達障害の虐待毒親に最近まで振り回されていた、アラフォー主婦のユイカです。
「生きる」という意味の言葉はおそらく、どの言語圏にも存在する言葉ですよね。
「甲斐」を辞書で引くと「何かを した(することによって得られる)好ましい結果や充足感。」とある。(新明解国語辞典)
しかし「生きる」+「甲斐」と、生きる事と充足感とをセットにした言葉というのは、日本特有らしいんです。海を渡った他所の国々には「生き甲斐」にあたる言葉が存在しないだなんて。なんだか不思議な気がします。
という事は
「生き甲斐がなくなった」
「生き甲斐が見つからない」
そんな理由で鬱になったり自殺したりするのは日本人だけなのでしょうか。
生き甲斐がなくても、生き甲斐を生き甲斐と認識していなくても、人って生きて行けるものなのでしょう。
ところでウチの両親の生き甲斐というのはおそらく、我々子どもだったものと思われます。
「子どもを良い大学に入れて、資格を取らせるか研究職に就かせる。」それがかつては両親の人生の目標であり生き甲斐だった。そこに執着するがあまり毒親となってしまった。
そんな両親は老後期に入った今現在も、やはり、我々子ども3兄弟にしか関心がない。未だに我々が生き甲斐なものと思われます。
(重たいわぁ。)
一方で我々毒親育ちの兄弟一同は、皆だいぶ、「生き甲斐迷子」ですね。
親が子どもの生き甲斐を勝手に決めて強要してきた事の弊害を今、見ています。
まぁ、親がかつて子どもに対して「これがあなたの道よ」と「生き甲斐」を強要していたとしても、オヤツが美味しいとか音楽の授業が好きだとか縄跳びが好きだとか、子どもの頃から子どもなりに自分の人生に喜びを見つけられていた人は、大人になっても生き甲斐迷子なんかになっていないのかもしれません。
でも、心が死んでて、何1つ人生に幸せを見出せない人は、生き甲斐迷子になる。というか、生き甲斐があるとか無いとかの問題じゃなく死にたい。早く死にたい。だって生きてても楽しくないから。コロナ関係なく、味覚なんて感じられない生ける屍、結構日本にいると思うんですよね。
でも。
「生き甲斐」という言葉が日本語特有で。
「生き甲斐」という言葉は日本にしかない。
それを知ってしまったら。
せっかく日本に生まれたんだから
日本の誰もが自分だけの自分なりの「生き甲斐」を持てたら良いなって、思うんです。